ヨハネによる福音書4章の中で、イエス・キリストはサマリヤの女と話されました。
ヤコブの井戸からくみ上げる水によって満たされることはないが、イエス・キリストが与える水、すなわち、イエス・キリストと主の福音は永遠の命へといたると教えられました。
ユダヤとガリラヤの間にサマリヤがあり、ユダヤとガリラヤへ行き来するためには、本来ならばサマリヤを通ることになります。
しかし、当時、ユダヤ人はサマリヤを迂回していました。
そのような状況の中、主は大いなる目的を果たすため、あえてサマリヤに行かれました。
それについて、七十人のロバート・C・ゲイ長老が教えています。
わたしの好きな聖句の一つは,ヨハネによる福音書第4章4節です。「しかし,イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。」
なぜこの聖句が好きなのかというと,イエスにはサマリヤに行く必要がなかったからです。その時代,ユダヤ人はサマリヤ人をさげすんでいて,サマリヤを迂回する道を通って旅をしていました。しかし,イエスは御自分が約束されたメシヤであることを全世界に向けて初めて宣言するために,あえてそこに行かれたのです。それを伝える相手として,のけ者にされていた民を選んだだけでなく,女性を選ばれました。しかも,罪深い生活をしていた女性,すなわち,当時最も見下げられていた人を選ばれたのです。イエスがそうされたのは,恐れや心の傷,依存症,疑念,誘惑,罪,崩壊した家庭,うつや不安,慢性の病気,貧困,虐待,絶望,孤独などよりも主の愛の方が大いに勝ることを,すべての人が常に理解できるようにするためだったと,わたしは確信しています。御自分の力で癒して,永続する喜びへと導くことのできないものや人はないことを,すべての人に知らせたいと,イエスは望まれたのです。
主の恵みは十分なのです。主のみが,すべてのものの下に身を落とされました。主の贖いの力は,人生のどんな重荷をも克服する力です。井戸の傍らにいた女に与えられたメッセージは,主はわたしたちの生活状況を御存じで,わたしたちはどのような状況にあろうといつでも主とともに歩むことができるということです。この女とすべての人に向けて主は述べておられます。「わたしが与える水を飲む者は,いつまでも,かわくことがないばかりか,わたしが与える水は,その人のうちで泉となり,永遠の命に至る水が,わきあがるであろう。」
引用:
「イエス・キリストの御名を受ける」
ロバート・C・ゲイ長老 七十人(七十人会長会)
主が行ってくださった贖罪の力を信じることができず、自分はもう救われるのは無理とあきらめることがあるかもしれません。
私の理解、考え、思いは不完全なので、そのように思うことがあります。
そのような私たちの思い、弱さを主はすべて御存じです。
そのうえで、無限の愛を持つ主は、私たちを思いやり、憐れみをもって救おうとされています。
主は、すべての問題、境遇、病気よりも、主の愛の方が大いに勝ることを、すべての人が常に理解できるようにするため、ユダヤ人からのけ者にされているサマリヤへあえて行きました。
そこで、罪深い人であり、女性、すなわち、当時最も見下げられていたと思われる人に、永遠の命にいたる水を飲みなさいと招かれました。
誰であろうと、どのような状況や状態であろうと決して遅すぎることはなく、心を開いて主とともに歩もうと決意した瞬間から、主の贖いと恵みの力によって新しい人生を始められる、やり直せる、癒される、永続する喜びを感じられると教えています。
イエス・キリストとその福音は喜びと永遠の命に至る水であり、すべての人にその祝福を受けてほしいと主は願われ、「わたしに従ってきなさい」と愛を持ってすべての人を招いてくださっています。
イエス・キリストのみが、すべてのものの下に身を落とされたので、どのような人でも主の贖いと恵みの力を受けて救われることができます。
そのことに感謝しています。
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