イエス・キリストの力は弱いところに完全にあらわれるため、想像もつかなかった祝福を主から受けてきました。
その祝福のあまりの大きさに、時々、弱さとは何だろうと考えるときがあります。
私に与えられている弱さは、おもに精神的な病気、障害、特性のことです。
病気になったため、仕事に就いて働けなくなり、引きこもりながら日々苦しみを感じて生きています。
それにより、主に心を向けることが多くなり、病気になる前よりもイエス・キリストとその愛と贖罪についてさらに深く知るようになりました。
そうでければ、苦しみに堪えることや、つらさの中で平安を感じること、生き続けることさえできなかったと思います。
7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。8 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。引用:新約聖書(口語訳)コリント人への第二の手紙12:7-10
使徒パウロも弱さ(病気)に苦しみ、離れ去らせて下さるように三度も主に祈りました。
主からパウロに言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」という言葉が大好きです。
今でも「この弱さはいつ強さへと変わるのだろう、いつ取り去られるのだろう」と思いながらつらい時間を過ごすときがあります。
信仰を振り絞って主に心を向けると「状態や状況はあまり変わっていなくても、それに対応する力が確実にもたらされている恵み」に気づきます。
パウロの言葉の通り「キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と言えるような信仰の強さと謙遜さを持ちたいと願っています。
イエス・キリストの力は弱いところに完全にあらわれていることに感謝しています。