神に感謝するようにという招きは聖文のいたるところにあり、現代の預言者も皆、そのように教えています。
ディーター・F・ウークトドルフ管長は、「どんな状況にあっても感謝する」ことについて教えました。
次のような古い話があります。あるウェイターが,食事を楽しんでもらえたかどうかを客に尋ねました。客は,何もかも良かったが,パンがもっと多ければなお良かったと答えました。次の日,その男性がまた来ると,ウェイターはパンの量を2倍にし,枚数も2切れから4切れに増やして出しましたが,それでも男性は満足しませんでした。翌日,ウェイターはパンをさらに2倍にしましたが,功を奏しませんでした。4日目,ウェイターは何としてもその客を満足させようと心に決めました。そこで長さが3メートルもあるパンを取り,2つに切って,笑顔でその客に出しました。ウェイターはその男性客の反応を見るのが待ち切れませんでした。食事の後,男性は見上げて言いました。「いつもどおり,おいしかったです。でもパンがまた2切れになりましたね。」愛する兄弟姉妹の皆さん,選ぶのはわたしたちです。祝福が欠けていると感じることを理由に,ある程度だけ感謝するという選択もできます。……どのようなことがあろうと感謝するという選択ができるのです。……時々,感謝は問題が解決した後でするものだと考えることがありますが,それは何と近視眼的な見方でしょう。雨を神に感謝せずに虹を待ち望んでいるようでは,人生においてどれほど多くのものを見過ごしにしていることでしょうか。悩み苦しんでいるときに感謝の気持ちを持つとは,自分の置かれた状況を喜ぶという意味ではなく,信仰の目で今日の試練の先にあるものを見るという意味です。……自分の置かれた状況にあって感謝するとは,神への信仰を行いに表すことです。それには神を信頼し,まだ見ていない真実のことを待ち望むことが求められます。感謝することによって,わたしたちは愛する救い主の模範に倣います。主は「わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください」と言われました。引用:
かつての私は苦しさのあまり、「すべての事について感謝できるくらいなら、精神的病気や障害になっていない」と考えることがありました。
頑張って感謝しようとしても、「息ができることに感謝します」とだけ、何とか振り絞って感謝していたときもあります。
それでも、感謝できることを見いだせるよう、主に頼りながら努力しています。
感謝ができることに感謝します。
この地上で生かされていることに感謝します。
選択の自由と体を与えてくださり感謝します。
主に似た者となるために、この地上で受ける試練、困難、逆境、病気、問題、悩み、誘惑などを通して成長できるよう助けてくださり感謝します。
主が愛してくださっていることに感謝します。
主を愛する力を授けてくださり感謝します。
弱く、罪を犯す私を贖うために、主が贖罪を行ってくださったことに感謝します。
罪を犯すたびに悔い改める機会と、やり直す機会を与えてくださり感謝します。
主を信じてともにくびきを負うならば、主が私の重荷を軽くし救ってくださるという信仰を授けてくださり感謝します。
主が生きておられることを知ることができ感謝します。
まだまだ、すべてのことについて感謝するにはいたっていません。
どんな状況にあっても感謝するのは、現在でも簡単ではありません。
それでも、ここに書ききれないくらいの感謝すべき事柄を見いだせるようになりました。
ウークトドルフ管長が話されている「悩み苦しんでいるときに感謝の気持ちを持つとは,自分の置かれた状況を喜ぶという意味ではなく,信仰の目で今日の試練の先にあるものを見るという意味です」という言葉を理解できるようになりました。
ウークトドルフ管長は、同じ説教の中で次のようにも教えています。
自分の置かれた状況にあって神に感謝するとき,わたしたちは艱難の中で穏やかな安らぎを味わうことができます。悲しみの中で,なお心を高めて神を賛美することができます。痛みの中でも,キリストの贖いによって喜ぶことができます。つらい悲しみがもたらす寒さの中で,天に抱かれたかのようなぬくもりを感じることができます。引用:ディーター・F・ウークトドルフ管長 大管長会第二顧問「どんな状況にあっても感謝する」総大会2014年4月
真の礼拝と祈りには、神への感謝が含まれます。
イエス・キリストは、この地上で生きておられたとき、そして復活してニーファイ人のもとに来られたとき、天父に感謝をささげ、模範を示されました。
「どんな状況にあっても感謝する」力を主に願い求め、天父と主に真心から感謝するとき、あるいはそのように努めるとき、主は喜ばれ、ウークトドルフ管長が証している祝福を授けてくださいます。
そのことを証します。