末日聖徒イエス・キリスト教会のビデオ「真のクリスチャン」を見ました。
教会のビデオでないようなワイルドな雰囲気で始まり、親友を亡くした二人の男たちが「真のクリスチャン」の意味を見いだすツーリングへと出発します。
ビデオ:「真のクリスチャン」(3:10)
ビデオの中で、親友との会話を紹介していました。
以下は、そのセリフの一部です。
仲間の何人かで集まって自慢話をしたことがあった。「ウォルター、俺はこの30年間、一度も教会を休んだことはないんだ」と俺が言うと、ウォルターは意地悪そうにニヤリとしてこう言った「そりゃ、なかなかの記録じゃないか。じゃあ聞くが、この30年で教会にいない間、君は何をやっていたんだい?その間も、真のクリスチャンだったといいがね。」引用:ビデオ:「真のクリスチャン」より
私は日曜日の教会以外の時間や平日も、真のクリスチャンだっただろうかと考えました。
振り返ると、精神的病気になって教会にほとんど行けなくなってからのほうが、真のクリスチャンに近づいているかもしれないと思いました。
苦しみに耐えるため、いつも主に叫び求めるようになったからかもしれません。
主について考え、主が望まれることをしたいと思うようになりました。
家族や隣人に対し、愛をもってミニスタリング(ミニスタリングとは?)したいと思い、取り組む機会が少しずつ増えています。
使徒ヨハネは、聖徒たちに次のように教えています。
18 子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。引用:新約聖書(口語訳)ヨハネの第一の手紙3:18
ジョセフ・B・ワースリン長老(十二使徒定員会)は、イエス・キリストの最も偉大な愛をもって素朴な親切と思いやりを示すことの大切さを教えました。
最も偉大な愛は,詩人や作家が描く劇的な場面には見いだせないことがあります。最も偉大な愛は,わたしたちが人生という旅路で出会う人々に示す素朴な親切と思いやりの中に見られることが多いのです。……終わりの日に,救い主はわたしたちがどのような召しを受けたかについてはお尋ねになりません。この世での財産や名声についてもお尋ねになりません。主がお尋ねになるのは,わたしたちが病人を癒したか,飢えた人々に食物や飲み物を与えたか,獄にいる人々を訪れたか,疲れている人々を助けたかについてです。(新約聖書 口語訳 マタイ25:31-40参照)天の御父の子供である最も小さい者を助けるために努力するとき,それは主にしていることになります。(新約聖書 口語訳 マタイ25:40参照)それがイエス・キリストの福音の真髄なのです。引用:
決して無理するのではなく、主に頼りながら自分の行えることを通してミニスタリングしていくとき、また感謝の気持ちをもってミニスタリングを受けるとき、互いに主の愛と御霊、平安や喜びを感じ、私たちに必要な霊的、物質的必要を主が満たしてくださると分かりました。
真のクリスチャンとなって、いつでも主と共に働けるようになりたいと願っています。