ルカ書7章36-50節に書かれている話では、シモンの家にイエス・キリストが訪問したとき、罪人である女性は自分の罪を悔い改め、赦されたいと心から願っていました。
彼女は涙でイエス・キリストの足をぬらし、髪の毛でふくなどの親切を行いました。
パリサイ人(モーセの律法に厳格に従い、主に疑いを持つ人々)であるシモンは、心の中で「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」と言って、主に対して敬意を示さず、親切にもてなすことをしませんでした。
デール・G・レンランド長老(十二使徒定員会)は、次のように教えています。
心の思いと志においてイエス・キリストに近くなればなるほど,その罪なき苦しみに対する理解,恵みと赦しに対する感謝の思い,悔い改めて主のようになりたいという気持ちが増します。わたしたちと天の御父,そしてイエス・キリストとの実際の距離も大切ですが,それよりもさらに大切なのは,わたしたちがどの方向を目指しているかということです。神がお喜びになるのは,御自分に近づこうと,今,努力している悔い改めた罪人であって,いにしえのパリサイ人や律法学者のように,人のあら探しをする人,自分がどれほど多く悔い改める必要があるかに気づいていない人ではないのです。引用:
この絵の中の一人は主から離れていますが、主に向かって歩いています。
もう一人は主に近いですが、主から離れていく方向へ向かって歩いています。
主からの距離、歩くスピードも大切ですが、それよりも、主に向かって歩いているかどうかが大切だということをレンランド長老の話から学びました。
イエス・キリストに向かって歩くとは、主に対してへりくだること、主を信じて従うこと、悔い改めを続けることです。
そのために、主は、私たちがいつでも主を受け入れて主と共にあるよう、戸の外に立ってたたき続けておられます。
見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
参照:Jesus at the Door (Jesus Knocking at the Door)
主は、私たちが今、戸を開けるのを、主に向かって歩むのを、愛を持って手を広げて待っておられます。
最初に紹介した「罪人である女性」は、まさにその模範です。
レンランド長老が話されているように、「神がお喜びになるのは,御自分に近づこうと,今,努力している悔い改めた罪人」です。
主を信じて従うのは今更手遅れだと思っていたとしても、主からどんなに遠くあっても、どんなに罪人であっても、イエス・キリストに向かって歩き始めるならば、そして歩き続けるならば、主は迎え入れ、赦し、救ってくださいます。
そのように、私にも主の愛がもたらされています。
イエス・キリストの愛と招き、希望が、すべての人にもたらされていることに感謝します。
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